的場山城   広島県三次市三良坂町皆瀬 

f:id:kohanatoharu:20220101112216p:plain

     f:id:kohanatoharu:20220101112447p:plain

 的場城について、江戸期の地誌『芸藩通志』は城主を加賀井越後守と伝える。南天山城に拠った和智氏の家臣とされる。

 城は蛇行して流れる上下川を見下ろすなだらかな丘陵上にある。上下川に面した北斜面は比高70mの急崖をなすのだが、南の丘陵側から城に向かえば緩やかな下りとなり、やがて城の背後を遮る土塁がちょうど堤防のように見えてくる。

 城が丘陵上に築かれるのは攻め上る敵兵を上方から迎え撃つ有利さがあるからだが、この城は南側から見る限り平地の城館と同じ。山裾に斬り込んで造成した土豪の居館が三方を土塁で囲み、背後の丘陵との間を空堀で遮断するという構造と瓜二つだ本城は平地の館を防御上有利な丘陵上にしつらえた館城と言えそうだ。

 主郭は長辺40m短辺20mほどの規模で、北側には加工不十分な削平地が付属するが、単郭の城と見て良さそうだ。背後を守る空堀は幅7m、空堀の深さは主郭背後の土塁との間で3m。土塁は主郭側から見ても3mの高さだから主郭は背後の丘陵面より低いことになる。主郭の土塁脇に見られる土壇は背後を監視する櫓台なのかもしれない。

 主郭背後を守る空堀は直角に折れて東辺切岸下に延びたのち、再び直角に折れて斜面を下る竪堀となる。塁線には明瞭な折が2カ所入って背後の空堀から東斜面側にかけて横矢が掛かる。西辺では主郭を囲む空堀は一部不明瞭となるが、切岸下には4基の竪堀がやや乱雑に刻まれて西方に広がる緩斜面を潰している。

 本城から北東の方角1kmには、和智氏一族の田利氏が居城したという赤城山城が望見でき、赤城の北東には和智氏家臣が居城したという友永城がある。どの城も上下川の川筋を見渡す急崖上に築かれた城だから、川筋を監視する役割を持っていたのかもしれない。

f:id:kohanatoharu:20220101112726j:plain

的場城全景。丘陵の麓には上下川が流れる。

 

参考文献

 吉舎町史編纂委員会『吉舎町史』 1991年 

 灰塚ダム湖とその周辺の生活編集委員会編 『灰塚ダム湖とその周辺の生活』1998年