三倉田城 岡山県美作市三倉田

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 三倉田城は美作三湯の一つ湯郷温泉から吉野川対岸に見上げる急崖の上に築かれている。城跡に登れば吉野川と梶並川の合流点に面した美作市中心街が、その背後には後藤氏の本拠三星城、一時期尼子氏の拠点となっていた林野城が見渡せる。

 急崖に囲まれた三倉田城の防御施設は尾根続きとなる北東側鞍部に集中する。この鞍部に刻まれた堀切(a)から東斜面にかけて刻まれた竪堀が攻め上る敵兵の山腹斜面に回り込む動きを制限している。aの堀切から尾根筋を上っていけば整然と並べ築かれた畝状竪堀群が現れる。この竪堀群上端に築かれた横堀(b)は攻め上る敵を迎撃す足場となったはずだ。登城路は確認出来ていないが、これらの竪堀群の間のどこかににつけられていたに違いない。

 竪堀群を過ぎると食い違いの土塁で守られた虎口曲輪(3郭)に入る。3郭は通路状をなす細長い曲輪であり、背後には高さ4mの切岸に守られた2郭が虎口部を真下に見下ろす。虎口を入ると通路は折り返して3郭に向かうのだが、そのまま直進すれば袋小路となって上方の2郭からの攻撃にさらされることになる。この地域の城の中では珍しく、防御の工夫の凝らされた虎口となっている。

 面白いのは2郭の虎口側が土塁囲みで折の入った端正な切岸に整形されているのに対し、西斜面側では切岸の造成すら不十分なまま放置されている点だ。

 主郭(1郭)に向かう通路は2郭の虎口脇から南へ、階段状に連なる小郭の脇を抜けて登っていく。丘頂の主郭を中心とした諸郭でも切岸の形成が不十分で、ここだけ見れば何とも安普請の城と見える。地形に即して歪んだ形の小さな曲輪が小さな段差で並び、土塁も盛っていないから、自然地形に近い状態とさえいえる。

 要するに土木工事の精力を虎口部分に集中させ、中核部の普請には無頓着だったということだ。

 三倉田城に関して『美作古城史』は城主広幡某、康安年中(1361−62)落城と伝える程度で事跡不詳とする。康安年中落城と言えば、山名時氏因幡から東美作に侵攻した時のことを指しているようだ。ただ現存する遺構は、発達した虎口部の構成から見る限り南北朝時代のものではなく、戦国末期に築城、あるいは改修されたものと思われる。

 いずれにせよこのような極端な志向性を持った縄張りからすれば、在地領主が継続的に使用してきた本拠の城ではなく、軍事的緊張状態の下で築かれた(あるいは改修された)陣城のように思われる。

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三倉田城(〇印)、林野城から撮影。

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三倉田城全景。手前は吉野川

参考文献

 寺坂五夫 『美作古城史』作陽新報社 1977年 

 美作国の山城編集委員会美作国の山城』 2010年