中山田城 広島県福山市熊野町

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 中山田城は中世の山田村(現在の福山市熊野町)中心部を見下ろす丘陵上に築かれている。城の遺構は階段状に並ぶ3段の曲輪と、尾根筋に当たる東西両側を防御する土塁・空堀からなる。

 図中3郭の虎口手前には二重の土塁が設けられ、登城路はその脇をすり抜けるように登ってくる。城郭の構造物で、城内が見透かされないように虎口外側に土塁を設ける場合があり、これを「茀かざし土居」と呼ぶ。逆に虎口内側に設けたものは「蔀しとみ土居」。面白いことに、幕末に各地で築造された西洋式城塞である「台場」の中で、鳥取県の由良台場がこの茀土居を備えている(下写真)。

 本城の場合茀土居に似ているが、背後にある3郭の方が土塁より高い位置にあるから、土塁は遮蔽効果よりも攻め上る敵兵を迎撃する拠点としての役割の方が大きかったかもしれない。土塁を楯に迎撃する守備兵は3郭からの援護を受けることもできたはずだ。

 この土塁脇を過ぎた登城路は虎口面を土塁で固めた3郭に導かれ、さらに2郭脇を抜けて主郭(1)へ向かう。

 主郭背後堀切面の土塁は削り出しによるもののようで、その外壁面は切岸として整形したものではなく、自然の斜面をそのまま城壁として利用しているように見える。主郭背後への備えにしてはなおざりだなあと思いながら下って行くと、鞍部には二重堀切とこれに隣接する畝状竪堀群が東斜面側に6基、西斜面側に5基築かれていた。長さは5~10mとやや小規模なものだ。

 守るべき曲輪が数郭に過ぎない小規模城郭だが、意外にも工夫を凝らした見所の多い縄張りとなっている。

 江戸期の地誌『西備名区』では中山田村の欄に「山田城」の名で載り、城主を渡辺刑部左衛門尉忠とする。「備後古城記」は観応年間(1350-52)の城主として渡辺忠の名を挙げており、すでに南北朝末期には存在していたことになるが、草戸を拠点としていた渡辺氏が山田村に進出し一乗山城を築くのは永正年中(1504-21)とされるから、当城の築城も一乗山城と前後する時期ではなかろうか。

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中山田城全景

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由良台場の茀土居(〇印、現地案内板を撮影)

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主郭

参考文献

 備陽史探訪の会『続山城探訪』2005年

 田口義之 『備後の山城と戦国武士』葦陽文庫 1997年