青ヶ城 広島県福山市郷分町

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 青ヶ城は芦田川沿いに付けられていた中世山陽道を見下ろす丘陵上にある。3つのピーク(A・B・C)にまたがって築かれた城の規模は東西400m南北幅150m。備後南部では神辺城に匹敵する規模を有する城である。

 標高235mの丘頂を占める曲輪群(A)のうち、長辺40m程の規模をもつ1郭、わずかな段差で連なる2・3郭が本城の中核部をなす区域で、これを帯曲輪が3段構えに取り囲む。本城の中では一番しっかり普請された部分だ。

 B・Cの曲輪群でも同心円状に曲輪を重ねているが、曲輪の肩が流れて遺構は不明瞭であり、各所に未加工の緩斜面を残す。Aから芦田川に向けて延びる尾根でも同様に未加工の斜面を取り込みながら数段の曲輪が築かれている。このうちbに見られる石垣は、ここに祀られた小祠に由来する後世のものらしい。

 このように確かに規模は大きいのだが、塁線を整えて切岸を急角度に加工し、要所に土塁を盛るといった丁寧な普請はなされていないから、土木工事量は城の規模ほどに大きいものではないようだ。全体的に見て素朴な縄張りの城と言えるが、注目されるのは城の南北両端を遮断する二重堀切が不釣り合いに大規模であることだ。何らかの軍事的緊張下で拡張・追加されたもののように思われる。 

 図中aは狐平と呼ばれる所で、周囲を尾根に囲まれた浅い谷間となる。江戸期の地誌「備陽六郡志」によると民家四五軒があって、この場所に皆内出雲守家老の屋敷があったことを伝える。ここには崩れた土塀の跡が残り、何十年か前までは民家があったようだ。

 この谷間に残る土塁・空堀は北側の尾根に面した部分で切岸(内側が低くなっている)に変わるのだが、谷底部分を囲い込むように築かれているから害獣の侵入を阻むための猪垣と見られる。なお西側面の空堀は背後の尾根上に伸び、やがて途切れる。弱点となる猪垣背後の切岸部分を補強しているのかもしれない。

 『西備名区』は、竹田村の大内山城(2021年9月20日付ブログ)に居た皆内出雲守景兼が、天文のはじめ青ヶ城を築いてこれに移ったとするが、青ヶ城の欄では出雲兼景が青ヶ城に移ったと記すのは単純ミスらしい。いずれにしても土豪レベルの領主と思われる皆内氏がこれほどの規模の城を築いたというのは信じがたい。城番として青ヶ城を守備していたのだろうか。

 

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青ヶ城全景。手前は草木集落

参考文献

 備陽史探訪の会『山城探訪』福山周辺の山城30選 1995年