大内山城 広島県福山市神辺町八尋・竹田

f:id:kohanatoharu:20210920111543p:plain

    f:id:kohanatoharu:20210822090439p:plain   

 神辺平野の周囲には平野を取り囲むように多数の城が残されている。岡山県境に近い平野の東端に位置するのがこの大内山城である。城名の「大内」は山麓の地名に由来するものだろうが、大内( おーち)とは大手の訛音で、城の大手を意味するとの見方もある(神辺町史)。

 丘頂部は主郭とその全周を囲む腰曲輪の二段構成。全体として南北90mに及ぶ大型の曲輪だが、削平痕の明瞭な部分はわずかで、未加工の緩斜面を取り込みながら造成されている。

 一方、腰曲輪を囲む切岸は高さ2m前後で比較的しっかりと造成されたものだ。切岸下には緩傾斜の帯状地形が伸びるが、曲輪として成形したものはわずかで、多くは切岸形成時に自然発生したもののようだ。

 曲輪の不鮮明さと対照的に、派生する尾根への防御には細かな工夫を施している。西尾根から主郭に入る通路は、尾根上の小郭を抜け、両斜面に下ろした竪堀によって狭められた通路を通らなければ主郭に入れないように構成されているし、南端の虎口でも東西両斜面に竪堀を下ろすことによって敵兵の行動を制限している。東斜面の竪堀脇にある小郭aは、山腹に回り込む動きに備えたのもので、竪堀に面して土塁を備える。さらに南西尾根基部では、尾根伝いに進攻する敵兵が切岸に迫るのを阻止するように5基の竪堀が尾根を切り裂いている。

 大まかにいえば、本城で明瞭な遺構は腰曲輪を囲む切岸と竪堀群だけだ。長期間継続して使用された城とは考えにくく、従ってこの城は砦・陣城といった類いの城のように思われる。

 天文10年(1541)郡山合戦に敗れた尼子軍が撤退すると、今度は大内義隆が芸備の国人たちを率いて尼子氏の本拠月山富田城を攻撃するが、あえなく敗退する。天文12年のことである。これを契機に神辺城主山名理興をはじめ、大内方に転じていた備後の国人たちは再び尼子氏と結ぶことになった。そののち大内軍の攻撃を受けた山名理興は天文18年9月神辺城を脱出して出雲に逃れ、城は落城する。

 江戸末期の地誌『福山志料』で大内山城主と伝えるのは皆内かいち氏(あるいは家市氏)。『西備名区』では、皆内出雲守景兼が大永の頃(1521-28)大内山城に居住したのち、子の式部大輔に跡を譲って郷分村の青ヶ城に移ったという。さらに式部大輔の子左馬介定兼は尼子方に属したのち、大内家に帰服して郷分より帰住したとするのは、この時期の混乱した情況を反映した動きのようだ

f:id:kohanatoharu:20210822092453j:plain

主郭北西側の帯曲輪と竪堀

f:id:kohanatoharu:20210822092407j:plain

西斜面の竪堀

参考文献

 神辺町教育委員会 『神辺町史』 1972年