高城 広島県福山市沼隈町下山南

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 高城の載る丘陵は南北200mにわたって細長く平坦な山頂部となっており、中ほどの浅い鞍部によって南北二つの峯に分かれる。北側ピークでは小規模な曲輪がわずかな段差で築かれているようなのだが、曲輪の肩が流れていて極めて不明瞭だ。南北のピークにはさまれた鞍部にも堀切として仕立てた痕跡は確認出来ない。

 城跡との伝承はあるのだが、自然地形に過ぎないのではないか。城だとしたらどこまでが城の遺構なのか。この疑いは南側ピークに入って少し和らいだ。曲輪は三段構えに配置されているらしいが、ここでも曲輪は自然地形に従って不規則にゆがむし、曲輪の縁に土塁は見られない。 

 ところが城の南端、南に延びる尾根には堀切ではなく竪堀が、それも畝状竪堀群が築かれていた。南端の曲輪下方の緩斜面をいったん斬り込んで切岸とし、その下に6本の竪堀を並べたものだ。

 尾根筋には遮断のために堀切が築かれているのが普通で、広島県下の城跡では尾根筋に堀切に替えて放射型の竪堀群を築いている城はわずか20例ほど。大場山城(福山市本郷町)など発達した竪堀群を備えた城に見られるに過ぎない。本城のような曲輪すら不明瞭な遺構に、申し訳のように追加されたものが放射型の竪堀群だったというのも一層興味深い。

 江戸期成立の備後国地誌『西備名区』(西備は備後国の別称)によれば、大永2年(1522) 工藤一益が安芸国から移り、高城に居城したが、天文年中工藤一国が藤江村の中組城に移った。工藤の去った高城には家臣の昌岡が入ったとするが、詳細はわからない。

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畝状竪堀群を写しているが、落ち葉でわかりにくい。

 参考文献 

  備陽史探訪の会 『山城探訪』福山周辺の山城30選 1995年