門山城 広島県廿日市市大野町城山

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 門山城は大野の市街地を見下ろす標高265mの岩山に載る。遺構は南北に伸びる稜線上500mほどの範囲に広がるが、尾根筋に連なる曲輪はわずかに整地して平坦面を造成した程度でいずれも小規模・不整形なもの。切岸が造成されているのは階段状に並ぶ曲輪の隣接部分だけであり、主に岩壁など自然の急斜面に依存したものとなっている。

 堀切・竪堀などの空堀も未発達で、堀切は北尾根の先端に不明瞭なものが一基確認出来るだけ。北尾根の基部には堀切を思わせる溝(図中a)があるのだが、これは城郭遺構ではなくここを越える山道が人の通行によって掘り窪められたもののように思われる。

 山頂部では巨岩をそのまま利用して施設が築かれたようで、山頂の三角点脇とその北側下方の岩にはそれぞれ2m弱の間隔で穿たれた2つの柱穴、山頂から南に下った岩壁の上にも1m程の間隔で一列に並ぶ7つの柱穴が残る。さらに山頂から南50mほどのところには巨大な岩の上面を縦190cm横65cm、深さ30cmほどに掘り込んだ水槽とされる施設(「馬のたらい」)もある。

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 山頂からは眼下に大野瀬戸、その向こうには宮島が迫る。目を北東に向けると広島湾方面、南は大竹・岩国方面まで、城山からの眺望の広がりは申し分ない。山頂一帯の岩に穿たれた3カ所の柱穴はいずれも瀬戸内沿岸部を見渡す絶壁の上に残されているから、見張り用の櫓が設置されていたものと思われる。7つ並ぶ柱穴の脇には「刀掛け」と称する巨石に刻まれた6段の石段も残る。雁行状に並ぶこの石段は櫓への出入りのために刻まれたもののように思える。

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 『芸藩通志』によれば、城主を大野弾正とする。大野氏は厳島神社神領衆らしい。永正5年(1508)厳島神社神主の藤原興親が京都で病死して、厳島神主家が断絶。その後神主職の継承を巡って、神主家の一族や在地の土豪からなる神領衆が東方・西方に分かれて対立したが、大永3年(1523)閏3月、大内氏に反旗を翻した友田興藤が武田光和らの合力を得て桜尾城に入城し神主を名乗った。同年八月には陶興房ら大内軍が門山を本陣として友田・武田軍と対陣している。この後大永5年から8年(1525-28)の間大内義興・義隆父子が門山に在城するなど、門山城は大内氏にとって安芸国進出の拠点となっていた(房顕覚書)。

 厳島合戦前年の天文23年(1554)、毛利元就は門山城が大内勢の拠点にならないよう、吉川元春に命じて門山城を破却させたという。『芸藩通志』でもこの年門山城の麓で吉川軍と陶方との間で合戦があったと伝えているから、城はこの時まで大内氏によって維持されていたようだ。従って現在目にしている門山城は破却された後の姿ということなのだが、岩だらけの山の姿から考えれば、破壊されたのは地上施設に過ぎないのではなかろうか。

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山頂北側の柱穴

 参考文献

  廿日市町編『廿日市町史』1988年