法天山城  岡山県美作市川上

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 法天山城は美作市川上の最南端、川上川と吉野川の合流点を見下ろす丘陵上に築かれている。前回のブログで取り上げた尼ヶ城(にがじょう)と共に「大野五ヵ城」に含まれる。

 南北朝の康安元年(1361)、山名時氏が出雲・伯耆因幡三國の兵を率いて美作に侵攻し、赤松氏の勢力下にあった東美作の諸城を攻略する。この戦いで川上川流域の大野五ヵ城に拠った土豪大野氏一族も山名軍に攻め落とされたという。天正8年(1580)塀高城の井口長兵衛が新免家に反旗をひるがえしたとき、当城に新免備中守が籠もり、井口長兵衛を討ち取ったという(大原町史)。

 城は北東ー南西に延びる稜線上の緩斜面に築かれており、中央部の浅い堀切によって東西二つの曲輪にわかれる。これが『東作誌』に見える本丸・二の丸に相当するのだろうが、いずれの曲輪も小さな段差の小区画に分かれているし、きっちり平坦面を造成したものでもない。曲輪の普請にはさほど重きを置いていなかったようだ。

 対照的に尾根続きとなる城の東西両端には、折を伴う土塁を巡らせて厳重に防御を固めている。特に注目されるのが東端の構えである。尾根を遮断する堀切は尾根上に広がる平坦面を刻むだけで両側斜面に延びてはいないのだが、長さは40mに及び、幅も10mに達する大規模なもの。2郭堀切面の土塁外壁面は高さ4mほど、切り立った城壁に仕立てられており、その両袖には虎口が開かれている。このうち南側の虎口には横矢掛かりの工夫も見られる。

 1郭の西端でも塁線に折が入り横矢掛かりとなっているのだが、土塁外壁面の高さは1~2m程度と低く、南に派生する支尾根も尾根基部をわずかに掘り切っているに過ぎない。城は東側尾根続きを重視した縄張りを見せる。

 いずれにしても防御ラインの構築を優先した築城となっているから、在地領主の居城のような継続的に使用される城ではなく、軍事的緊張下で急遽築かれた軍事拠点としての城、それも南北朝期のものではなく戦国期の陣城のように思える。

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東端の堀切

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小起伏の残る曲輪内部

 参考文献

 岡山県文化財保護協会『岡山県中世城館跡総合調査報告書』第3冊美作編 2020年

 大原町史編纂委員会 『大原町史』地区誌編 20001年

 正木輝雄 『新訂作陽誌』1975 作陽新報社