金子山城 岡山県高梁市備中町平川

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 金子山城は紫城に拠って平川を支配した平川氏一族の居城で、「文化10年備中国川上郡平川村明細帳」(備中町史史料編所収)では城主を平川左衛門景親・同弥次郎氏親と伝える。また城名を金護山城と記すから、金子山城は「きんごさん」と読むのだろう。

 城は備後国境から東へ舌状に伸びた低丘陵先端に築かれたもので、周囲の水田面との比髙は30mに過ぎない。城の北東側には建武3年(1335)平川氏が近江国野洲郡平川からこの地に移った際、近江国平川から勧請したという鋤崎八幡神社がある。神社の北側が平川の中心集落下郷でここに平川氏居館があるから(案内図参照)、平川氏にとって本拠とする紫城と並ぶ重要拠点となった城であろう。

 城の規模は東西約100m南北50mほど。平川氏領内に残る城跡の中では紫城と並び最も整った姿を見せる城である。注目点は発達した土塁の存在である。まず主郭(1)背後の堀切面には高さ4mほどの土塁。次に主郭北東隅から延び出した土塁が2郭の周囲を囲む。最下段の4郭は北斜面に大きく回り込んでおり、その先端には西側尾根続きに備えた土塁が残る。 

 東麓からの登城路は階段状に並ぶ4つの曲輪を順次経由して主郭に入る。道は4郭に入るとすぐに折り返して上方に向かうのだが、ここに侵入した敵兵が直進すれば袋小路となって、上方の2・3郭からの攻撃を受けることになる。2郭でも虎口を入るとすぐに折り返して主郭へ向かう。4郭と同様敵兵が直進して2郭に侵入すれば、上方の曲輪からの攻撃を受けることになる。なかなか見事な構成。

 登城路は他に背後の空堀から主郭脇の小郭に付けられたものもあるが、当時のものかどうか。このほかにも山道が残るが、後世のものと思われる。

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主郭。祠の背後に土塁がある

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2郭虎口

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左寄りが3郭、奥に4郭が見える

 参考文献  

   備中町史編纂委員会 1972年 『備中町史』