紫城 岡山県高梁市備中町平川後北

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  紫城主平川氏は建武3年(1336)に近江国野洲郡平川から穴門郷に入部し、穴門郷の本郷に自らの氏の名をとって平川村と称したという。平川氏は成羽川右岸の高原上に位置する穴門郷の北寄り、現在の備中町平川から布賀に勢力を広げ、各所に一族・家臣の居城を配置していた。

 江戸中期、平川村の庄屋平川親忠の著した『古戦場備中府志』は備中国の諸城について解説したものである。これによれば平川氏は天文年中まで尼子の旗下に属したが、毛利方に与したため、天文9年9月尼子軍が攻め寄せた。この戦いで尼子軍を撃退した平川久親は毛利氏から備後国笹尾の地を給わったという。

 この後平川氏の動向はわからないが、毛利氏による天正検地をもとに作成された「八箇国御時代分限帳」によれば、平川氏は備後国神石郡に「平川領」423石など、神石郡内に給地を持つだけだから、本拠地であった備中国川上郡の所領は失っているようだ。関ヶ原の戦いの後、平川氏は成羽川東岸に根拠地を持つ赤木氏らと同様毛利氏の防長移封に従わず帰農し、江戸時代には村の庄屋を務めることになる。

  しかし紫城とは優雅ではあるが何とも不思議な名前。城名は所在する地名や城主名で呼ばれるケースが多いのだが、本城はそのいずれでもなく、城名の由来は『備中町史』にも記載されていない。不思議なのは城の位置もそうだ。備中府志で平川氏とその一族・家臣を城主と伝える城の位置を下図に示したが、本拠である紫城が平川氏居館のある中心集落から外れて、平川氏勢力圏の北端に築かれたのは何故だろう。

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平川氏とその一族・家臣の拠る城

 紫城は備中町平川の下郷にある平川氏居館から北へ2.5km、下郷川成羽川に合流する地点を見下ろす標高602mの山頂にある。新成羽川ダムができて往時の姿を止めないが、城の北から東にかけては高度差400mに及ぶ急崖であり、城への進入ルートは西側高原面に連なる部分に限られる。

 成羽川の舟路開削の記念碑である「笠神の文字岩」は城の真下、新成羽川ダムのすぐ下流にある。備中・備後北部で生産された鉄は陸路成羽まで運び出し、そこから川船で積み下していたが、ここが開削された鎌倉時代末以降、舟路は上流の西山まで延長されたという。

 城がこのような辺鄙な場所に築かれたのは成羽川の水運を掌握する意図があったのだろうか。そうであれば、成羽川を挟んで向かい合う位置にある柴(しば)城(上図中星印で示した位置)や菖蒲城のような高原の縁に築かれた城も同様の機能を果たしていた可能性がある。 

 城跡は約100mにわたって南北に連なる4つの曲輪からなる。曲輪はいずれも矩形によく整形されており、南端の4郭は全周土塁囲みとなる。大手の登城路は4郭南側につけられている。切岸下に刻まれた空堀を土橋でわたり、高さ8mほどの高さをもつ城壁につけられた道を登って4郭に入る。1郭西下方には搦め手の虎口があり、ここから西下方の空堀に城道が延びる。

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紫城から西麓の後北集落を見下ろす

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1郭西方の虎口

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4郭虎口を下方から見上げる

参考文献

 備中町史編纂委員会 1972年 『備中町史』