上之段城 広島県三次市大田幸町

別  名 木梨城、大城

主な遺構 土塁・横堀・竪堀

アクセス

 三次方面へ向けて国道375号を北上。美波羅川を渡って糸井町に入ると塩町方面に向かう県道430号が分岐する。川沿いの県道を約1km進めば対岸の河岸段丘上に上之段集落があり、集落背後の丘に上之段城がある。

f:id:kohanatoharu:20210416181509p:plain
地理院地図(電子国土web)に加筆。

pasted-image.jpg

 江戸期の地誌『芸藩通志』の城墟欄には「大城」、同書の大田幸村絵図には「古城山」の名で載り、城主を木梨小次郎元種とする。一方備後国地誌である『西備名区』は木梨小次郎元経が城主であるという。木梨氏は備後南部木梨庄を本拠地とする国人領主であり、木梨家書上(藩閥閲録巻53)に見える木梨民部大輔元恆は小次郎を通称とするから、この人物を指しているのかもしれないが、木梨氏と上之段城との間にどのような関係があったものか確認出来ない。 

 城は舌状尾根先端に築かれた土塁囲み単郭のプラン。曲輪面と同じ高度で連なる背後の丘陵との間は土塁・横堀で遮断している。土塁上と堀底の比髙は約2m。土塁には浅い折ではあるが、繰り返し折が入って城壁面にはくまなく横矢が掛かる。谷川を見下ろす城の東側は急斜面となって落ち込み、よく見るとここにもうっすらと土塁が巡っているのが確認できる。意外なのはその設置箇所である。急傾斜で落ち込む東辺に土塁を築きながら、上之段集落に面して比髙の小さい西辺に築いていないのは理解できない。後世の破壊によるものだろうか。 

 曲輪の削平はわずかで小さな起伏が残るし、背後につながる丘陵を遮断する土塁のラインに折が入り、土塁内側には溝状の凹地が見られる。これらは陣城に共通して見られる特徴だから、本城はいずれかの戦いに際して築かれた城のように思われる。

 本城付近で起こった戦いとしては、天文22(1553)大内・毛利軍が旗返山城を攻撃したものがある。旗返山城は三次盆地の南部美波羅川流域に勢力を有した江田氏の本拠で、尼子方に寝返ったことから大内・毛利軍の攻撃を受ける。戦いはこの年4月本城の南方寄国で始まる。その後備北各地で戦いが繰り返されたのち、10月に旗返城が落城して江田氏は滅亡する。美波羅川を挟んで本城の西にある笠城山城も旗返山城と共に落城したと伝えるから、上之段城はこの戦いに関連して築かれたのかもしれない。

f:id:kohanatoharu:20210404160352p:plain

折の入った土塁