別名 要害山城
標高414m 比高240m
主な遺構 土塁・石垣・堀切・横堀・畝状竪堀群
アクセス
石見銀山大森観光案内所前から谷間の道を南西に1kmほど進むと山吹城登山口の指示板がある。山頂まで良く整備された道が延びている。
山吹城は周防国の戦国大名大内氏が大森銀山防衛のために築いたとされる。享禄四年(1531)から約30年の間、石見の国衆小笠原氏と尼子・毛利の両氏が加わって銀山争奪の戦いを繰り返すが、永禄5年(1562)からは毛利の支配下に入った。江戸時代に入ると石見銀山は幕府領となり、山吹城は廃城となった。
山吹城はお椀を伏せたような形の山に載る。広々とした山頂部には塁線を直線的に整えた端正な曲輪が連なって、まるで近世の城を思わせる。その一方、比高240mに及ぶ山は中腹が急崖となっているから、難攻不落という言葉がぴったり当てはまる城となっている。
東麓からの登城路(案内図参照)は、前半は谷沿いにつけられているが、後半は尾根伝いの道で、鉄製の手すりとコンクリート製の板が設置された急階段となる(下写真)。その上、道の両脇は切れ落ちているから、足のすくむような険しい道となっている。このような状況だから本来の登城路もこの尾根にあったものと思われる。
この登城路が上の縄張り図4郭に上ってくる。攻め上る敵は側面にある5郭と、虎口部を正面から見下ろす位置にある3郭からの攻撃を受けることになるはずだ。
虎口をくぐった道は3郭へ、さらに石垣の築かれた2郭をへて1郭(主郭)へ向かう。1郭北辺には櫓台( a )があり、城壁には折も入って横矢の掛かる厳重な虎口となっている。
1郭南側の横堀( b )は幅10m、深さは1郭との間で5m。東端がふさがれ、ここが土橋となって下方の郭とを結ぶ通路となっていたようだ。中世山城で曲輪の切岸下に沿って築かれた横堀は、水平ではなく多少のアップダウンを伴うのだが、b の横堀は中世山城のものとは異質で、近世の城を思わせるものだ。
主郭南側で要となる曲輪が6郭で、主郭脇の通路によって2郭と繋がり、南下方の曲輪から上がってくる通路に虎口を開く。6郭脇のcは虎口脇を固める櫓台のようだ。
城の南側斜面は大規模な畝状竪堀群で覆われる。竪堀の数は合計21基。竪堀の上端には迎撃拠点となる帯曲輪があり、竪堀群の下端から発生する支尾根には堀切一基が刻まれていた。
竪堀群の築かれた所は、立木にすがらなければ立っていられない急斜面であり、国土地理院の地形図で等高線の間隔から斜面の傾斜を調べてみると、高度差:水平距離=60m:70m。間違いなく40度を超える急斜面だ。従って竪堀群を築くことによって防御を強化するというより、攻め寄せた敵軍に攻め上ることを諦めさせるためのものと言えそうだ。
いずれにしてもこの城に一旦籠城すれば、攻め手は力攻めで攻め落とすことは難しく、包囲して持久戦を選ぶしかなさそうだ。石見銀山の重要さを改めて感じさせる城となっている。
最後に一言。
山吹城が世界遺産に指定された時、恐らくきれいに整備されたのだろうと思うが、今回訪ねてみると、藪に覆われて遺跡を見て回ることが出来ない状態になっていた。植樹して木の数をもっと増やすことなど、関係者の方に是非検討をお願いしたい。
参考文献
『日本城郭大系』14巻鳥取・島根・山口 新人物往来社 1980年