市川氏も中郡(なかごおり)に所領を有する武士だが、中郡衆には含まれない。
白木町市川にある星ヶ城の主とされる市川経好は、山県郡新庄の小倉山城主吉川国経の孫である。
経好の従兄弟にあたる吉川興経は、天文18年(1549)吉川の家督を毛利元就の二男元春に譲った後、幽閉された深川ふかわで殺害される。その後経好は市川村に蟄居し、その地名によって市川を名乗っている(『萩藩閥閲録』市川三右衞門家書上ほか)。
白木町市川にある城について、『芸藩通志』ではー
小田城 小越・市川二村の間にあり、
星ヶ城 市川村にあり、吉井山、又元井山といふ、井上元兼 一に信経 所居
又市川式部ともいふ、
天文19年(1550)、毛利元就は有力家臣であった井上氏の横暴をとがめ、井上元兼父子をはじめ一族三十余人を誅殺した。その後、井上氏一族の居城していた星ヶ城には市川経好が入城している。
星ヶ城は標高239mのとんがり山にあって、城に登れば三篠川の川筋に大きく視界が広がる。1郭は2区画に分かれるが、全体として東西25m南北30mほどの規模。北端には土塁を備え、その下方を三重堀切で遮断している。西下方の2郭も堀切面に土塁を備えており、この土塁脇には井戸跡とされる素掘りの穴がみられる。
星ヶ城から南に延びる尾根の先端にはごく小規模な砦、小田城がある。
三篠川の対岸にある順教寺は市川氏の土居屋敷跡と伝え、巨石を使った石垣が残る。『白木町史』によると、順教寺の山号である木舟山は背後にある山の名で、城跡とも考えられるとあったから調べてみた(下図)。
小規模で整形不十分な削平地が尾根筋に並び、背後は二重堀切で遮断しているから城跡と思われ、仮に木舟山城と呼ぶ。
三篠川西岸にある亀山神社(旧称小田迫神社)は井上氏ゆかりの神社で、天文7年源元盛(誅殺された井上元兼の一族)が檀那となって本殿を造立したものという(『広島県神社誌』)。
参考文献
岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房 1983年
広島市役所編『白木町史』 1980年